創造的に生きること
私たちは、乳幼児期の子どもたちを外側から眺めることに慣れていました。そのために、赤ちゃんをはじめ子どもたちが、未熟で可愛い存在と写っていました。一般的にですが、子どもたちの早期教育という考え方の中にも、子どもたちが未熟であるということが前提になっているように思います。そのために、赤ちゃんはどうして玩具に関心を示すのか?モノとしての対象や現象に関心を示すのはどうしてか?という「子どもの能力」はあまり問題にされてこなかったように思います。
玩具の世界でも、ディベロップメント・トーイという言葉があります。他にもエデュケーション・トーイや知育玩具などの言葉がありますが、いずれも子どもたちを未熟な状態から引き上げようという考えが基盤になっているように思えます。何処に引き上げようとしているのか?ここにも検討しなければならない問題があるかも知れません。なぜなら、こうした外側からの働きかけによって、子どもの中には情緒的に退行した状態が見られるからです。
では、子ども自身の能力とは何か?そして、子どもはどうして玩具に関わろうとするのか?またある子どもたちはどうして玩具に関われないのか?メラニー・クライン、ドナルド・ウィニコット等を参考にしながら考えていきたいと思います。
人間の赤ちゃんにとって、はじめての玩具とは何か?母親の乳首であそんでいることが報告されていますから、赤ちゃんにとってのはじめての玩具は、お母さんのオッパイということもできます。イギリスのニューソン夫妻は「おもちゃと遊具の心理学」の著書の中で、赤ちゃんに向けられた母親のまなざしと声は、生物学的なリズムを反映した最高のおもちゃだといっています。しかし、時間的な経過を加味して考えると、お母さんのオッパイやまなざしや声は玩具とはいえなくなってしまいます。
上は生後4ヶ月の赤ちゃんです。左手に布が握られています。この時赤ちゃんの心に何が起こっているのでしょう?
ウィニコットは「母親と赤ん坊の最初の関係」の中で、早期段階におけるほど良い母親の機能を3つに要約しています。
1.抱っこする(ホールディング〈=holding〉)
2.あやす(ハンドリング〈=handling〉)
3.対象になる(オブジェクト・プレゼンティング〈=object presenting〉)
以下はウィニコットの言葉です。「幼児の創造的衝動を現実のものにすることは、対象と関係を持つことのはじまりになります。したがってこれが上手くいかないと、対象や現象の現実世界の中で実在感を持つ能力を発達させる糸口をふさぐことになります」ウィニコットはこのとき「私は新生児、生後2〜3週間ないしは2〜3ヶ月の幼児を念頭においています。6ヶ月ともなると、もはや私の考えている段階をこえていると言わなければなりません」と断っています。
では、幼児期の創造的衝動とは何か?ここでは、本能衝動に支配された幼児の空想を表しています。この幼児の空想は、身体の興奮とそれを補足しようとする幻想から起こります。ほど良い母親の機能の「1.抱っこする行為」は、興奮と幻想に支配された赤ちゃんに対して「あなたはここにいます」と言う働きかけであり、「2.あやす行為」は、筋緊張つまり協調運動と呼ばれるものの発達に関与して、存在することを楽しむ能力に影響を与えるということです。
ここで3の、ニューソン夫妻が言った「赤ちゃんに向けられた母親のまなざしと声は、生物学的なリズムを反映した最高のおもちゃ」を赤ちゃんにとってのオブジェクト・プレゼンティングと解釈した場合に、これらの行為によって、母親と赤ちゃんの間に情緒の交流が行われていることは明らかです。それから「赤ちゃんの手に握られている布」これも母親から赤ちゃんに与えられたオブジェクト・プレゼンティングの一つです。
これらの「赤ちゃんへの二つのプレゼント」の相違点は、片方は母親と赤ちゃんという生物学的関係であり、もう片方は赤ちゃんと柔らかい布という生物と無生物との関係ということです。そして人間の赤ちゃんは、生物にも無生物にも情緒的な交流を結ぶことができるようになります。問題は、どのようにしてそのようなことが出来るようになるのか?ということです。
赤ちゃんが掌に柔らかい布を握り、同時に親指をしゃぶりながら眠りについている光景はよく見られます。寂しいとき、不安なとき、眠りにつくときなどに見られるこうした仕草は少し年齢の大きい子どもにも見られます。
これらの対象物は、はじめは部分対象としての母親の乳房を、赤ちゃん自身を、全体としての母親や父親を象徴するようになってくると考えられています。こうした対象物を剥奪されると、落ち着きのなさや不眠を来すことも有ります。 精神分析学では対象喪失と言う言葉が使われますが、愛する恋人を失ったとき、母が我が子を失ったとき、子どもが母を失ったときになどに起こる悲哀感です。大事なモノを失ったときにも起こります。
生後2〜3ヶ月の赤ちゃんにとって、母親の全体像はまだ感知できないようですから、母親がいなくなったときには消えたと感じられ、赤ちゃんが泣いて母親に抱かれたりオッパイを与えられたりしたとき母親が現れます。しかし、消えたとか現れると言う場合そこには何らかの視点がありますが、赤ちゃんにはこの視点すらも定まっていないようです。そう考えると赤ちゃんが大変不安定な状態におかれていることが推察されてきます。この段階をウィニコットは、まだ自分(self)というものができていない未統合な状態といっています。
私は今、赤ちゃんが手にしている柔らかい布と情緒的な関係を築き始める時期と、その意味を知りたいと思っています。そして、およそ生後2〜3月頃に起きているのではないかと考えています。それは、赤ちゃんが把握反射から解放されて握り返す、追視が始まって見るという行為が積極的になってくる、正中線を中心に身体が左右対称になって首が安定してくるなどの、何らかの統合が行われている時期に相応しているのではないかという大まかな予測からです。
「攻撃性が子どもの気質の中にあるということを受け入れなければなりません。しかしもっと重要なことは、憎しみや攻撃的な衝動を出しても、それに対して憎しみや暴力の報復がなされないということです。子どもにとって良い環境とは、子どもたちの攻撃的な感情を受け入れることの枠組みとして存在するものです」以上はウィニコットの言葉です。
新生児のときから攻撃性があるということを受け入れるのは、私たちにとって大変むつかしいことかも知れません。しかし後になって、表現するよろこび、到達するよろこび、知るよろこびへと導いていく原動力の一つが、本能衝動の中の攻撃性と関連しているということは、子どもの行動を理解していく上で重要です。
私は今、メラニー・クラインの妄想−分裂ポジションと早期の抑うつポジションのことを考えています。そして、混乱してしまうのではないかという不安と、私にとっての新しい視野が開けるのではないかという期待があります。ウィニコットを理解していく上でも、クラインを知りたいと思います。
赤ちゃんの手に握られている柔らかい布、これが母親の一部であること、言い換えれば母親の乳房を象徴していることについてはおおよそ理解できます。しかし、どうしてそのような関係が生じてくるのかというそのメカニズムは分かりません。このような言い方が許されるなら、赤ちゃんという生物が柔らかい布という無性物に対して情緒的な関係を結ぶと言うこと、ここから理性への道が開けてくるのではないかという期待もあります。
メラニー・クラインは「幼児の情緒生活についての二、三の理論的結論」のなかで、分裂過程が弱まって自我統合と対象関係が発達していく時期について、「私が、早期の抑うつポジションの始まりとして述べた情緒生活の特徴を、生理学的な側面から表現したものであり、両者は相補的なものとして理解することができる」ということで、以下M・リブルの見解を取り上げています。クラインの見解に入る前に見てみます。
「脳と神経系が不完全であるというまさにそのために、幼児はいつもその機能が解体してしまうという潜在的な危険性を持っている。外的な危険とは、この機能的な平衡を直感的にあるいは如才なく維持してくれる母親から、突然引き離されると言うことである。実際に拒絶してしまうことや愛情に欠けることは、等しく悲惨なことである。内的な危険とは、生物的要求による緊張亢進であり、組織体がその内的エネルギー、代謝性平衡、刺激反応性を維持できない状態である。酸素の必要性は急を要するものとなる。なぜなら、小さな幼児の呼吸機序は充分に発達しておらず、大脳の急激な発達に必要とされる、増える一方の内的要請に適切に対応できないからである」
「子どもの人格に見られる特性(quality)と凝集性の多くは、母親に情緒的に愛着するということに頼っている。この愛着とは、精神分析用語で表現すれば、母親へのカセクシスのことである。それらは、幼児が母親から得られる満足感の中で次第に育っていくものである。われわれはこの発達していく愛着の本質について詳細に研究してきた。それはかなり捕らえにくいものであるが、とても重要なものでもある。三種の感覚体験、すなわち、触覚、固有知覚すなわち位置覚、聴覚が愛着行為一義的な要因となっている。これらの感覚器官の能力の発達については、幼児を観察するほとんど全ての人が述べている・・・。しかし、母子間の人間関係においての特別な重要性については強調されていない。それは、授乳によって得られる満足感を超えた何ものかである」これらは分裂ポジションに相補するものです。
次は早期の抑うつポジションに相補するものです。「生後3ヶ月までに呼吸、消化、血液循環といった身体的活動はかなり安定し始める。このことは自律神経系がその特殊な機能を自ら引き受けることができるようになったことを示している。解剖学的な研究からわれわれは、胎生期の循環経路が、通常このときまでに閉鎖されるものであることを知っている。この頃になると、成人に典型的に見られる脳波像が現れ始める・・・。それらは多分、より成熟した大脳の活動性を示ものである。かならずしも充分に分化しているとは限らないものの、明らかに陽性または陰性の情緒反応が、急激に全運動領域にわたって現れる・・・。視線はよく定まり母親を追うことができる。聴覚はよく機能し、母親の作り出すいろいろな音を識別できるようになる。母親の姿を見たり、その音を聞いたりすることによって幼児は、かっては母親と直に触れることによってのみ得られることができた陽性の情緒反応を体験するようになる。そのような情緒反応は、それにふさわしい微笑や心からの強い喜びを伴うものである」以上は、出産から生後3ヶ月位までの幼児500例についての観察から得た、M・リブルの生理学的な見解の要旨です。しかしここからは、赤ちゃんの手に握られた布やその他の情緒関係を直接に見いだすことはできません。
乳幼児の精神世界に立ち入ることは、ある意味で誤解を伴うかも知れません。それは、私たちが日常生活を等して観察できる世界とは異なったものだからです。M・クライン自身、分裂的機制についての覚え書きの中で「私がこれから述べようと思う発達の非常に早い段階に関する仮説は、大人と子どもの精神分析で得た材料から推論したものである」と述べています。
乳幼児の精神世界は、私たちが睡眠時に見る「夢の中で起こるできごと」に類似していると思っています。それは、純粋に快感と不快感に支配されている世界であり、時間的秩序のない誇張された世界です。ただし、表象としてのシンボルが有るか無いかということについては分かりません。睡眠時の夢の場合、私たちは何らかの願望を映像に置きかえています。しかし、生後2〜3ヶ月の赤ちゃんは五感から入力される諸々の映像を未だ持ち合わせていないからです。一方、フロイトは夢の研究の中で「夢の中の表象の意味は、民族、文化を問わず共通していること、遺伝していること・・・」等を示唆しています。
赤ちゃんの妄想に映像は有るのか?今のところ私は興奮の内容が有るのだと思っています。私たちが睡眠中に見る夢は映像が伴っていますが、これは顕在夢とよばれています。この顕在夢を生じさせる背景に潜在夢が作用しているということです。潜在夢には何らかの興奮の内容が有って、主に視覚から捕らえられた映像に興奮の内容が投影もしくは転移されて夢の映像ができるようです。たとえば、思春期に見る性夢は性器の興奮に関連しているようです。しかし顕在夢の材料は一般的に五感から入力されたものです。
私は今、二つのことを知りたいと思っています。一つは赤ちゃんが手にしている柔らかい布と情緒関係を結ぶ時期について、そしてもう一つはどのような機制でそのようなことが起きるのか?ということです。そのためには、あえて乳幼児の精神世界に立ち入らなければならないと考えています。しかしそれは、現実世界のできごとではなく、夢の中のできごと、分裂し誇張された妄想の中で起こっている出来事として理解したいと思います。
赤ちゃんの精神世界は本能衝動に支配されています。この本能衝動は、愛の衝動と憎しみの衝動、精神分析用語ではリビドー衝動と攻撃衝動という言葉で表されています。リビドー衝動はバラバラになったものを拾い集めて統合しようという働きがあり、攻撃衝動は分裂し破壊しようという働きがあります。これらの二つの衝動は私たち成人の場合は接近していて貨幣の裏表のように感じられますが(そのために、ある程度コントロールし易い)、赤ちゃんの場合は分離していて別々のものとして受け取られているようです。
赤ちゃんにとってのもう一つの受難に不安があります。幼い子どもの不安の出現についてフロイトは「もしも母親が不在か、母親が子どもに愛情を向けなくなってしまうとすれば、幼児は自分の欲求が満たされることを信じられなくなり、緊張という最も強い苦悩感にさらされることになるだろう。」以下、幼児の不安を引き起こす最初の外的な原因は出産体験に見いだされるとして「幼児の受ける苦痛、不快と子宮内状態の喪失は、敵意に満ちた力にさらされること、すなわち迫害されることとして幼児に感じ取られるように思える。したがって幼児は苦難にさらされると、いつも対象に対して被害的な不安を抱く。」と述べています。
M・クラインは、不安に対する最も早期の自我機制と防衛について、投影と取り入れ、分裂、理想化、否認などを上げています。投影は、危険なもの、悪いものをを取り除くことによって自我が不安を克服することを助けます。そして良い対象の取り入れもまた、不安に対する防衛として自我によって用いられます。対象の分裂については、満足の状態では愛の感情が満足を与える乳房に向けられ、欲求不満の状態では、憎しみと迫害的不安が欲求不満を引き起こす乳房に向けられることを銘記しなければならないと述べています。
赤ちゃんの精神世界は攻撃衝動に支配されます。それは子宮内状態の喪失という不安や出産という苦痛な体験と結びついています。早期自我のさまざまな防衛と、幼児に同一化した母親の愛の衝動が幼児の愛をはぐくみ、さまざまな危機を乗り越えていく様子を見ていきたいと思います。
生のはじめから破壊衝動が対象に向かい、母親の乳房に対する空想的口愛的サディズム的攻撃として表される。この攻撃はすぐに、ありとあらゆるサディズム的方法を用いた、母親の身体へと向かう猛攻撃へと発展していく。母親の身体から良い内容を奪い取ろうとする乳児の口愛的サディズム衝動と、自分の排泄物を母親の中に入れようとする肛門的サディズム衝動から迫害的恐怖が生じる。このような現象のほとんどが生後数ヶ月には一般的に認められるものである。私は、この早期の時期に関して妄想−分裂ポジションと名付け、抑うつ的ポジションに先行すると考えた。
迫害的恐怖が非常に強く、乳児がこのために、妄想分裂ポジションを通過できないと、次には抑うつポジションの通過を妨げられてしまう。この挫折が、迫害的恐怖を退行的に強化し、重篤な精神病の固着点を強固にする。また、抑うつポジションのときに生じる障害に関する結果が、後の人生における躁うつ病であろう。発達の障害がより重篤でない場合は、同じ要素が神経症になるか否かの選択に強い影響を与える。
しかし、それでも私は、子どもの早期発達において中心的役割を果たすのは、抑うつポジションであると考えた。なぜなら乳児の対象関係が、全体としての対象を取り入れることで根本的に変化するからである。完全な対象の愛する側面と憎む側面の統合が、悲哀感と罪悪感を生み、これらの感情が、乳児の情緒生活および知的生活における生き生きとした進歩を意味してくる。これはまた、神経症になるか否かの重要な結節点でもある。私はこれらの結論の全てを、今も確信している。
以上は、M・クラインの早期の情緒生活における概要です。私は、乳児の妄想と分裂の過程について、今のところこれ以上立ち入らないことにします。これらは、現実の中で起こっている出来事ではなく、身体的な興奮を基に乳児の空想の中で起こっていることで、私たちが確認をすることができないからです。それは、睡眠時に見る夢の中のできごとのようなもので、現実に起こる出来事ではありません。しかし、抑うつポジションの通過については、現実に起こる出来事と対比して観察することができます。
幼い乳児とその母親の間の親密な絆は、母親の乳房との関係を中心に発展していきます。最も初期の数日から、すでに乳児は、母親の他の属性、たとえば音声や顔や手などにも反応するが、幸福と愛情、フラストレーションと憎しみという基本的な情緒体験は、母親の乳房と切っても切れない最も密接な結びつきを持っています。母親とのこの初期の絆は、乳房が乳児の内的な世界に安定した形で確立されてゆくにつれて強化されていきます。そして、すべての対象関係に決定的な影響を与えます。そして、この対象関係は慎みのある、しかも強力な愛着を形成する能力の基礎になります。
ほ乳瓶でほ乳された赤ん坊にとって、そのほ乳瓶は、それが乳房によるほ乳と近似した状態で与えられた場合、たとえば母親との親密な身体的接触が保たれ、愛情に満ちたやり方であやされたりしてほ乳された場合には、乳房と同じ役割を果たします。このような条件の下で、乳児は自分の中に、良いもの(goodness)の最も基本的な源泉になると体験されるような一つの対象(object)を確立します。このような意味で乳児は自分自身の中によい乳房を取り入れます。それは、母親との安定した関係を基礎づけるプロセスでもあります。しかしながら、よい乳房の取り入れは、ある点で、乳房の場合とほ乳瓶による場合では微妙な違いが生じます。
生まれたての新生児は、無意識的に次のように感じています。良いものを持った一つの対象(object)が存在し、この良いものを持った対象から最大限の満足を得ることができます。この良い対象は、通常母親の乳房です。さらに、私は次のように考えています。この無意識的な知こそは「母乳を所有しているという感情」が、乳房によるほ乳を受けていない子どもたちにさえも発達します。それは、ほ乳瓶でほ乳された子どもたちもまた、母親の乳房をその良い側面と悪い側面の双方で取り入れるという事実が示しています。ほ乳瓶で育つ乳児の能力が、内的な世界によい乳房を安定的な形で確立するその強さは、様々な程度の内的及び外的な要因によって規定されています。これらの諸要因の中では愛情を向けることへの先天的な能力(系統発生的な素質に由来するもの)が重要な役割を演じているでしょう。そこで、これらの過程でその個体発生的な要因がどのように働いているかを認識することが当面の課題になってきます。
ほ乳瓶の乳首は、期待される母親の乳房のにおいや、温かさや柔らかさを持っていません。したがって、乳児がほ乳瓶によるほ乳を受け入れ、楽しむという事実があるにもかかわらず、乳児は最大限の満足を得ていないという体験をします。その結果、独自の対象に対する深刻な渇望を経験することになります。この、どうしても手に入れることができない理想的な対象に対する渇望が精神生活の中に様々な形をとって現れてきます。このようなことは、乳房ほ乳によって満足な経験を持った人々にさえも起こることがあります。しかしながら私は、たくさんの精神分析において、乳房ほ乳を充分に受けなかった人々の場合には、手に入ることができない対象に対する渇望がとりわけ強烈で、しかも特別な性質を持っていることに気づいています。たとえばある人びとの場合には、乳房の剥奪を味わったという感情が、不安定さと失望の強烈な感覚を引き起こします。しばしばそれは、対象関係とパーソナリティの発達にさまざまな影響を与えます。ところが、別の人々の場合には、それはどこかに実在しているに違いないという対象に対する渇望が、理想的な高度の基準を追求するような、ある特定の昇華の流れを強力に生み出します。
私は、二つのことを知りたいと思って、M・クラインの見解を見てきました。その一つは、人間の赤ちゃんが、無生物である手にした柔らかい布と情緒関係を結ぶ時期について、もう一つは、どのような心的機制でそのようなことが起こるのかと言うことでした。
クラインの見解によれば、乳児は生まれながらにして、自分自身の中によいもの(goodness)の最も基本的な源泉になると体験されるような、一つの対象(object)を確立する能力を持っているということになります。それは、愛情を向けることへの先天的な能力が、系統発生的な素質に由来するものであることも示唆していました。
自分自身の中に、最もよいものとしての源泉の対象が母の乳房であること、それが取り入れという心的機制によって「一つの内的対象」になること、それはほ乳瓶によるほ乳においても同様に内的対象になるということでした。
母の乳房が部分的なとしても生物の範疇に入り、ほ乳瓶が無生物の範疇に入ることは明らかです。食性として、母の乳房ではなくほ乳瓶でもほ乳できると言うことは人間の特性とはいえません。ほ乳瓶が「よい乳房」として、一つの内的対象になり得るということ、心的機能に関連してくると言うこと、これが人間の特性でしょう。事実、クラインは、ほ乳が乳房でなされた場合とほ乳瓶でなされた場合の微妙な差について及言しています。生のはじめから破壊衝動が対象に向かい、母親の乳房に対する空想的口愛サディズム衝動が生まれます。母の乳房は「よい乳房」と「悪い乳房」に分裂し、よい乳房を取り入れ、悪い乳房を投影して外に押し出そうとします。これが、分裂と防衛の初期の機制です。こうした機制が生物に限らず無生物にも及んでいると言うことだとしたら、人間の赤ちゃんは、生物に限らず無生物とも情緒関係を結ぶ能力を生まれながらに持っているということになるでしょう。
ところで、1歳前後の幼児が、寂しいとき眠りにつくとき外出するときなどによく見られるが、子どもの掌に握られている布や抱き人形が、不安を和らげるものであることは明らかです。なぜなら、何処かに置き忘れたり剥奪されたりすると、落ち着きを無くしたりパニックを起こすからです。それは部分対象としての母親の断片を表しているか、統合されたばかりの自我を表しているのでしょう。誰が言ったのかは分からないが、子どもの掌に握られた布や人形を「こころの杖」と表現したのは適切だと思います。
さて、赤ちゃんのはじめてのおもちゃに焦点を当ててみましょう。これまでの文脈では「赤ちゃんが手にした柔らかい布」でした。ほ乳瓶によるほ乳において、ほ乳瓶が母親の乳房を象徴していることはすでに見てきました。しかしこれらは口唇によるものです。それでは、赤ちゃんが手にした柔らかい布と情緒関係を結ぶ時期はいつごろからでしょう。
その時期については、クラインが早期の抑うつポジションの始まりとして述べた生後3ヶ月頃と考えるのが妥当のように思えます。リブルの見解では、成人に典型的に見られる脳波現象が現れ始める時期には相応し、コミニケーションによる微笑や追視など対象への愛着(注意カセクシス)が見られる頃です。
私はこれらの時期について、これ以上調べていく必要性をあまり感じていません。複数の母親に尋ねたところ、タオルやハンカチなど手にして眠りについたり、指をしゃぶったりする情景は2〜3ヶ月頃に見られたと言うことでした。それよりも、不安を和らげる手段として、こうした対象を利用していることに改めて驚きを覚えました。その他にも、攻撃衝動を放出する手段としてこうした対象を利用しているように思っています。4〜5ヶ月頃に見られると思いますが、赤ちゃんが手にした布を口に押し込もうとしている情景が見られます。私は赤ちゃんに見られるこうした行動に、「対象を利用する能力」という言葉を添えたいと思います。
10年前、私は「子どもはなぜ玩具が好きなのか?」という素朴な疑問を持ちました。子どもの前に玩具を並べると、必ずといっていいほど近づいてきます。接近の仕方はさまざまで、遠くから眺める子、これなぁにと聞いてくる子、あそんでいいと了解を求める子、手が伸びてあそびはじめる子...etc。いずれにしても、食べられもしないものにどうして持続的な関心を示すのか?こうした子どもたちの行動を好奇心という言葉で表すのは簡単です。
玩具の研究といえば、フレーベルやモンテッソーリ、障害児関連の教育者がいます。しかしいずれも、どのような玩具が良いのかと言うことに重点が置かれていて、「子どもはなぜ玩具が好きなのか?」という理由については探求されていなかったように思います。
しばらく目の前の人間から離れて、動物行動学や人類学の本を読みました。はじめてのフィールドだったので楽しいものでした。京都霊長類研究所の河合雅男、松沢哲朗...etcのチンパンジーの研究や、東京大学動物行動学の林真理子の性淘汰へのこだわりは興味を引いきました。そこには、野生の動物が枝や木の葉を使って、威嚇したり、木の実や虫を捕ろうとしたり、求愛行動をすることなどが報告されていました。しかし、それらの対象と情緒関係を結んでいるという報告はありませんでした。チンパンジーやゴリラの雄が、雌に花束をプレゼントしたり(食べ物では報告されている)、死者を埋葬する場面があったとしたら状況は変わるのでしょう。
人間がそれぞれの対象に情緒関係を結ぶのは日常的に見ることが出来ます。同じ銘柄のハンカチでも、好きな人からもらったら嬉しいし、嫌いな人からもらったら鬱陶しく感じたりします。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉もそうしたことを端的に表しています。愛する人を失ったとき、その人の持ち物が如何に愛おしいか・・・。そこには、愛する対象を取り入れてシンボル化し、ものとしての対象に投影する人間の姿があります。
メラニー・クラインの見解に戻って見ると、赤ちゃんは愛されることを通して、母の乳房を一つの対象として取り入れると言うことでした。そこには、赤ちゃんが良いものを持った対象が存在し、この良いもの(goodness)から最大限の満足を得ることが出来るという系統発生的な素質を有していると言うことでもありました。そして、この良い乳房を所有しているという感情が、ほ乳瓶でほ乳された子どもたちにおいても観察されると報告しています。
赤ちゃんが母の乳房に限らず、ほ乳瓶とも愛着の対象として情緒関係を築くことができるということは経験的には知られていたことと思います。しかし、心理学的な説明を得ることが出来たことは、今後子どものあそびの意味と価値を考えていく上で重要になってくるでしょう。